「とおりいっぺん」。

マスコミやメディアとかといった情報を届ける媒体とは、読者という受け身でしか向かい合っていなかった自分が、「取材」というのに初めて出会ったのは、東京で半導体商社の事務をやっていた時のことでした。自分が取材対象になったのではありません。

その日は、技術部の課長が朝から妙に緊張していました。
「今日は、半導体の市場調査会社の担当の方が取材に見える。それで午前中はずっと会議室を使うので、電話などがきても折り返しにしてほしい」
ノートパソコンは課に一台だけという時代です。ワイシャツネクタイにグレーの作業用のジャンパーを羽織り、厚い資料を何冊も携えて、課長はやってきた担当者の方と会議室で聞き取りをされていたようです。ようです。というのは、私は会議室には入っていないからです。
当時20代の私の頭の中には「取材というのはきちんと準備をして、失礼のないように臨むものだ」という意識が植え込まれたようです。

そしてある時、女優さんのインタビューを読んでいました。
「役づくりのために、その仕事をしている人に取材していろいろお話を聞いたり、仕事をしている場所におじゃまさせていただいたりしました」…ん? 「取材」というのは、文章を書いたりするためだけのものではなく、自身の中に何かをたくわえるためにするものでもあるのだろうか。だとしても、取材されるために、何をどういうふうに話をもっていっているのだろうか。「こんにちわ~、役づくりのために取材させてください」といって「はいどうぞ」と承諾してもらえるものなのだろうか。女優さんが見知らぬ一般の方と「取材」という人間関係を築くその方法は、私にはものすごいブラックボックスに思えました。

時を経て今、何の訓練も勉強もしていないのに、なぜかインタビューされることもあるし、する側に回ることもあるようになりました。特に「する」時は、ものすごく腰が引けています。
弱小媒体をひとりで出している立ち位置でしかない自分が、そこに載せることを目的に自分が話を第三者に聞くことは許されることなのだろうか、私利私欲のために、自分ひとりが楽しむためだけに媒体に載せるということを利用していないだろうか。取材や掲載に至るまでの手続きや方法は正しいのだろうか。失礼なふるまいをしていないだろうか。文章の書き方は正しいのか。記事を出す前に当事者にチェックはいただいていますが、内容に本格的にダメ出しをしてくれる人はいないままここまで来てしまいました。

最近は、こう考えています。
「自分がインタビューする時は、とおりいっぺん(通り一遍)のことを聞けばよい」
相手が話したくないことは無理にたずねない。取材相手の言葉が「とおりいっぺん」になっても、その「とおりいっぺん」を聞いて残すことが、今の私にできることなのではないだろうか。今の「とおりいっぺん」は、時間が経てば「とおりいっぺん」ではなくなる。

私は、取材の中から聞き手の私という存在を消して、関心を持った人に届く役立つ情報になりたいです。私は情報になりたい。

| | コメント (0)

ふんまつつるべ。

Photo_20220307114101

(じろ☺︎@1y🎀さんのツイート)

 

ある時、ツイッターで「粉末鶴瓶」という言葉が出てきました。
何だ? と思って検索をかけたら、どうやら伊藤園の粉末麦茶のパッケージに、CMキャラクターをやっている笑福亭鶴瓶師匠の顔写真が貼ってあって、赤ちゃんにも優しいお茶ということで、用いる時に「粉末麦茶」の言い換えとして「粉末鶴瓶」という言葉がそれなりに使われているもようです。「粉末」で、一瞬、頭の中におぞましい映像が浮かびましたが、そういうことではありませんでした。


伊藤園 さらさら健康ミネラル むぎ茶 (チャック付き袋タイプ) 40g

検索をさらにかけると、麦茶=鶴瓶ということで、粉末のみならず「缶入り鶴瓶」とか「鶴瓶のペットボトル」とか、字面を素直に読むとおだやかでない言葉がちょこちょこと出てきます。ただ単に麦茶のパッケージに鶴瓶師匠の顔が印刷されているだけということなのですが、ここまで商品として利用されている落語家の顔があるでしょうか。落語家である以前に、顔そのものが商品として認識されているタレントとしての扱い。CM契約が無くなれば消える言い回しだとは思います。

落語家であることがまず前面に出ることが多い落語家のタレント活動の中で、己の存在を商品と同一化されて(されて)なおその価値を失わない。そこまでタレントであることが思い浮かぶ落語家としては、現役落語家では唯一無二だと思います。顔だけで落語家と認識される存在としては、柳家金語楼以来ではないでしょうか。…ふ、古い(私も実際のところは知りません)。

粉になったり缶になったり、そこまでされて大丈夫なのかな? と思いましたが、考えてみたら、過去には生理用ナプキンのCMで「月のもの(つまり、生理の経血)」になったりしているので、モノ化されて見られることに抵抗が無いのでしょうか。
落語家としての己であること以前に、他人に定義される自分になることへのハードルが、他の落語家に比べておそらく低い。

ここで、本来だったら落語家として鶴瓶師匠の高座と関係づけて語るべきなんでしょうが、残念なことに、私は鶴瓶師匠の高座を客観的に評価できるほどきちんと見聞きしていないんです。静岡(清水)で2回、あと、映画館の配信で1回くらいでしょうか。

ただ、そういう己以外の何物かになることができる才能というのは、この方の俳優としての評価の高さにつながるのかなあ、と、そんなことを思ったりもしています。

そういうわけで、今度、コンビニで麦茶を買おうと思いました。

 

 

 

| | コメント (0)

さりげなく。

2022年3月1日のサラメシ冒頭は、郵便局にカレーを届ける前局長の話題でした。

 

サラメシ シーズン11(33)「郵便局のカレー▽橋田壽賀子の鉄板焼き」

高知県土佐市。退職した前郵便局長が作るカレーが、後輩の郵便局員たちに好評だ。カレーはもちろん、自ら手作り。ほぼ月イチペースで、みんなの楽しみな昼食になっている。カレーを通じた、心温まる交流とサラメシを拝見!

小さな郵便局、退職した前局長が、後輩のために月一回届けるカレー。微笑ましい話題ですが、ところどころに現実がふわっと顔を出します。

  • 前局長が退職したのは13年前の53歳の時。営業などのノルマがきつくなり、今まで顔なじみで済んでいた間柄も「免許証の確認」などで面倒になり、退職を決意したが後悔はない。
  • 前局長に抜擢された女性の現局長、郵便業務だけではなく保険や貯金の業務も少人数でこなす。カウンターで「民営化されたんだから、つぶれないということはない」。

見ながら思ったこと。

郵便局の民営化は2007年。地道に地元で郵便局員として仕事をしてきた前局長が、民営化で業務の質が変わり、退職を決意するしかなかったんだろうな。そして新局長は、民営化された郵便業務を新たな心構えで日々の業務をこなしてゆくんだろうな。

画面はルーを4種類入れて作られるカレーを、そして畳敷きの郵便局のバックヤードで食べられるカレーを淡々と紹介しています。
けれども、その中に、さりげなく入り込む郵政民営化の現実。いいとも悪いとも言わない。ただそこにある状況を紹介するだけ。

あ~、こういう表現私好きだな、と思いました。問題点を真正面からとらえるのも大事だけど、そういう取材や表現では萎縮してしまう対象などを、物や人のクッションをかませて紹介する方法。

…そういうふうに、社会問題を取り上げたいですね、と、お役所のPR誌の編集のお手伝いをした時に提案したら、「は?」と言われてしまいました。そんなことをおいしそうなカレーを見ながら思い出しました。

画像は特に意味はありません。観光案内から引用しました。

 

| | コメント (0)

「お母さん、学校の先生できる?」

私にとって、小さい時、親の存在は絶対でした。
親は何でもできる、できないことはないと信じていました。

ある日、団地の居間で、手編みの赤いカーディガンを着て座る母親に尋ねたことがあります。

「ねえ、お母さん、『学校の先生やってくれ』と言われたらできる?」

母親は、中学を卒業して集団就職で東京に上京、目黒の大きなお屋敷で女中さんとして数年間働いた経験を持つ人です。
今だったら、そういう人が学校の先生なんてできない、とすぐにわかります。
けれども、当時小学校低学年だった私にはそんなことは当然わかりません。
学校の先生になるくらい簡単だ、母親にできないはずはない、と思っていました。
「…どうかなあ、言われたら頑張ってやるよ」
「できる」とは言わなかったけれども、「できない」とは言わなかった。
はっきりとは覚えていないのですが、そんなことを言ったように記憶しています。

*           *           *

 

「突然ですが、落語を教えてみませんか?」


ある日、私のところに知らない方からいきなり電話がかかってきました。
地元のカルチャーセンターの方からでした。
人に物を教えたことがない、人前できちんと話した経験が少ない、ただただ落語が好きで、東京から静岡に戻ってきてこの「好き」をどうすることもできなくて、誰かの「好き」が落語会として形になったのを他の誰かに情報として手渡すことしかできなくて、東海落語往来をただひたすらに作り続けてきた私のもとに唐突にやってきた「先生やってください」です。
その時、頭に思い浮かんだのは、子どもの頃に母親に聞いた

「ねえ、お母さん、『学校の先生やってくれ』と言われたらできる?」

でした。
聞いてきた相手が娘であるか、会社員であるかの違いはあります。けれども、あの時の母親と、今の私の知識量と経験と、置かれた立場は何が違うだろう。
ただ他の人より少しだけ「好き」の度合いが強すぎるだけで、けれども大都市にいる人に比べたらどうということもなくて、体系的に学んだ経験もなく、読んだ本と聞いた音を言葉として前から後ろに流すだけです。
そして、私も「できる」とは言わなかったけれども、「できない」とは言いませんでした。
幸か不幸か、落語の知識を教えるのには、資格は必要ありませんでした。そして、依頼する側には、本職の落語家を招くだけのお金がありませんでした。



その後、カルチャーセンターの話は、チラシを配布するところまではいったのですが、コロナ禍で開講が延期になり、2022年現在ペンディングになっています。ですが、お話をいただいた担当者の方とは現在もつながりがあります。
その代わりといっては何ですが、地元の老人向け講座や公民館の講座で落語の講義をするようになりました。これらの話も、やはり突然の連絡からでした。

私が今「教えている」のは、いわば、NHKの語学講座で言語を学んだ人が地域で通訳や教室を始めるようなものだと認識しています。英語だったりすると絶対人数が多いので教える人になるのは難しいですが、ちょっとレアな言語などの場合は、好きこそものの上手なれで活動する人がいらっしゃるという話を聞いたことがあります。

私は、自分の知識もどきを、誰かのために役立てていることができるでしょうか。
そして、そのままの母親がもし学校の先生をやっていた時より、上手に教室で先生をやっているのでしょうか。

| | コメント (0)

父は誰に似ている。

10年前に亡くなった私の父親は、あごが少し出ていました。
本人曰く「いかりや長介の弟として富士で飲んだことがある」というのが自慢でした。
富士市はいかりや長介氏が育った場所、そして父が一時期勤務したことがある工場がある場所です。
父は遊び人ではなかったので、娘はそれを話半分に聞いていました。

先日、テレビを見ていたら、「いかりや長介が実家を訪ねる」という番組を再放送していました。
収録・放送されたのは1995年だそうです。(*)
いかりや氏の実家にはお父さまとお母さま、そして弟さんとそのご家族がいらっしゃいました。
テレビの画面からわかったこと。
いかりや長介氏に弟さんがいるということ。
そしてその弟さんはあごが出ているというわけではなかったこと。

・・・。
「有名人の弟を名乗って飲む」、ネットでいろいろな情報が流れている現在では、とても考えられないふるまいです。
もし本当に、私の父が「いかりや長介の弟」を富士の飲み屋で名乗ってちやほやされたとしたら、それはどういうふうに受け止められていたのだろう。お店の人にいいようにあしらわれていただけではないだろうか。
長女は、確かめようのない数十年前の父のふるまいを思い、ひとりテレビの前で悶絶しました。

*      *      *

2021年のある日、私の夫が、テレビを見ながら言いました。
「おたくの亡くなったお父さん、菅(義偉)首相(当時)に似てない? 目の窪んだあたり」

・・・。否定できない。
そして、私は「いかりや長介にあごが似て、目のあたりが菅首相に似ている男」の長女です。
あごも過剰に出ていないし、目のあたりが菅首相にも似ていない、はずです。

きっと。たぶん。おそらく。それがどうした。

(*)NHK『BSおはよう列島 ふるさと旅列車 いかりや長介 〜静岡県 富士市〜』

| | コメント (0)

キラキラ。

   夏の暑い日、母親から電話がかかってきました。
「もしもし、あのね」「はい」
「向かいの家のAさんのお父さんが孤独死した」

えっ。

 

*         *        *

 

私の実家のお向かいのAさん(注:イニシャルではありません)宅。
数年前に奥さんが病気で亡くなってからは、ご主人が広い邸宅にひとりでお住まいでした。お子さんは複数いるのですが、近年家にいるのを見た記憶はありません。いろいろと事情はあったようですが、それはこちらにはわかりません。

「お向かいさんが孤独死した」なんて、娘以外他に話す相手もいないと思います。
母親は私に向かって目の前で繰り広げられたここ数日、そしてついさきほどまでの出来事を電話口で語りました。

毎日会って挨拶していたAさんの顔をここ数日誰も見ていない。
新聞受けに新聞が数日分たまっている。
家のチャイムを押しても誰も出てこない。
…これは何かあったのでは、と町内の皆さん感じたけれども、家に入ることはできない。
Aさんの身内の方の連絡先は町内誰も知らない。
町内で相談して、組長さんが警察に連絡をしたそうです。

通報後しばらくして、警察の方が複数やってきました。

「それがねえ、あんた、警察の人がすごく恰好良かったのよ」
「恰好良かった?」
「うん、3~4人かなあ、きりっとしていて、いつも交番から来るような人と全然違う。若くて本当に恰好良かった、キラキラ✨輝いて」
「キラキラ✨?」
「うん、キラキラ✨」
「いや、でも、それ、交番の人に申しわけなくない? 状況ぜんぜん違うんだから」

…キラキラ✨、ねえ…。

そして、そのキラキラ✨輝いた若い警察官は家の中に入ってゆき、こと切れたAさんを発見。遺体を収容してしかるべきところに持っていったそうです。夏の暑い盛り、遺体がどのような状態だったかは、私の母を含めた町内の方は直接見てはいません。

「ほんっと、警察官が若くてキラキラ✨してたのよ」
「はあ」

母親はキラキラ✨した警察官の様子を事細かにうれしそうに話してくれました。
まさかご近所の孤独死の対応の話を聞いていて「キラキラ✨」なんて単語が出てくるとは思いませんでした。あーびっくりした。

でも、まあ、母親が「キラキラ✨していた」というから、しかるべき対応をしてくださった警察官の方はキラキラ✨輝いていたんだと思います。一種の変死という現場に向かい合う方々は、体力気力ともに充実していて、気合いを入れないとてもこなせないお仕事なのでしょう。
私の思い浮かんだ感想はそんなところでした。
でも、年老いた母親がキラキラ✨した警察官の存在に気持ちが前向きに動いたのだとしたら、それはそれで悪いことではありません。

とはいえ、私は「キラキラ✨輝く警察官に会いたいですか?」 と言われると、「はい」とは言えません。
肩の力の抜けた警察官と時折無難にすれ違うくらいの、のんびりした日常を過ごしたい。

*            *            *

今年の初め、私の母に、テレビの通信販売で買い込んだのであろう「根こんぶだし」を一本おすそ分けしてくださった、お向かいのAさんのご冥福をお祈り申し上げます。根こんぶだしってけっこうしょっぱいんですね。あれは料理ができない男ひとりでは確実に持てあまします。

 

 

 




| | コメント (0)

普通の女性をテレビで見つめてみた結果。

最近見たテレビから、2例ほど。
(1) バラエティ番組。スタジオで、同じ趣味を突き詰めた女性二人が並んで話をしていました。ひとりは主婦、もうひとりはタレント。同じくらいの知識量でどちらも熱心に話をする。その熱さはともに共感が持てるものでした。

タレントは鮮やかな青色が印象的なノースリーブのブラウスを身に着けていました。そして主婦は、この日のために選んだよそゆきのためのストライプのプリントブラウスじゃないかな。そんなことを思いながらテレビを見ていました。
そのうち、番組が進行して時間が経つにつれて、主婦の服が、強いライトの下で、その服の仕立てや繊維が量販店のものであること、そして何度も洗濯をしたのであろうへたり具合が見えるようになってきました。タレントのブラウスはそんなふうには見えません。二人の服が、

「テレビに出るために購入したわけではない何度か着たよそゆき着」

「テレビに出るために購入した非日常着」

の違いが、テレビカメラの前ではっきりとわかりました。

これが一瞬の出演だけだったら、そんなことまで気づきません。番組が二人を真摯に取り上げ、一緒に並んで少なからぬ時間画面に映り続けているからこそ、タレントの服とははっきり「違う」ことがわかってしまう。それは主婦にとってあまりにも残酷な現実のように思えました。

(2)これは番組名をはっきり言います。NHKEテレ「SWITCHインタビュー 達人達」のある回です。
この番組は、前半と後半で場所を変えての二人の対談番組です。ある時、対談相手の一人として登場した女性のメイクと服装が前半と後半で明らかにはっきりと変わっている、と感じた回がありました。もちろん二回の対談の日付と場所が違うわけですから身に着けるものなどが変わり、それに伴ってヘアメイクを変えるのは当然のことです。ですが、私がその時はっきりと違いを感じたことを覚えているのは

「前半は本人が選んだ服装であり日常のメイク、後半はプロのメイクとスタイリストをつけて場とイメージに合いカメラ映えする最適な服とメイクにした」

ということです。
もちろん前半の服も似合っていましたし、メイクは薄かったですが好感の持てるものでした。ただ、その場のちょっと凝った照明のもとでは顔のツヤ感が汗をかいているように見えていた、ようにも思います。おそらく、企業を経営しているその方の日常の仕事着とメイクだったのだと思います。
後半では、はっきりと化粧が変わっていました。目元にしっかりとアイラインが入り、マスカラもしっかりつけ、あと、肌にはっきりとファンデーションがきちんと塗られていて、肌が過剰にテカることがないようになっていました。

以下は推測でしかないです。おそらく、優秀な企業人でもあるその方は、一回目を撮影した後にいろいろとチェックを入れて「テレビでこうありたい自分」をプロの目を入れてチェックを入れた結果、前半と後半で見た目がガラッ、と変わることを決断したのだと考えます。
ちなみに、その時の対談相手の男性の方は、服装は変わっていましたが、見た目はそれほど変わっていなかったと記憶しています。かける眼鏡を変えたのが目立った変化でしょうか。

 

*               *               *

で、私が何を言いたいかというと。

「普通の女性は、ふだん着で

テレビのスタジオ番組に

出演してはいけない」。

ロケ収録や完全に観客の一人としている場合は別です。万が一、出演者として出ることになってしまったらという場合です。
強いライト、細部まで映すカメラは、日ごろは気にしないで済む服や肌の細かい部分の荒れやアラ、老い、所帯くささや泥くささを想像以上に映し出してしまう。そしてそれをしっかりとカバーできるだけの技術や方法を持った方か、マイナス面があった場合それを魅力に変えることができるだけの力を持つか、どういう姿を映し出されても平気な心持ちの方だけがスタジオにいることができる。性別問わず、年齢問わず、キー局だろうが地方局であろうが衛星局であろうが、どんな小さな番組であろうが。
そういう望まない存在感をカバーするだけのテクニックや方法を持たないで日常をそのままテレビスタジオに持ち込むと、それは残酷なまでに隠せない良からぬ部分を映し出してしまう。そしてそこから得られた視覚情報を私のように過剰に読み取るバカが生み出される(あああ)。

私は、ラジオ番組やweb配信などに出演したことはありますが、幸いにもテレビスタジオでの番組に出演したことはありません。これからもおそらくないとは思いますが、物好きのひとりとして多少人前に立ったり取材されたりする機会が出来た昨今、「見られる」という意味がテレビ画面では他の媒体より意味合いが重くのしかかるのだ、ということは自覚しておきたいと思います。

| | コメント (0)

嫁入り道具の使い道。

結婚して磐田に来る時に、嫁入り道具なんて大層なものはありませんでしたが、ひとつだけ買ったものがあります。

それは
「駿河塗の箱鏡台」
でした。

引っ越した先はごくごく普通の一戸建てです。そこで暮らす上で最低限の化粧品を入れる場所として、静岡駅にある駿府楽市で購入しました。3万円程度かな。5万円はしませんでした。カード決済をしようとしたらうまくゆかなくて、あわてて現金を下ろしたのを覚えています。

箱鏡台の前がふたになっていて、ふたを上に開くと鏡が上につき、中の箱と小さなひきだしが二つ見えます。ひきだしを開けて閉じると、もうひとつのひきだしが勢いでしゅっ、と軽く開きます。ものすごく満足です。

で、この箱鏡台は、現在も化粧の時に利用しているのはもちろんですが、現在、意外なことで重宝しています。

それは
「ネット配信の時のノートパソコン置き場」
です。

zoomなどでオンライン会議をやるようになり、本や荷物で乱雑な部屋を見せるわけにもゆかないので、白壁で物が少ない部屋にパソコンを移し、部屋でクッションに座って配信に参加するようになりました。その部屋にテーブルはあるけれども、ちょっとパソコンは置きづらい位置にある。

そこで、箱鏡台の上にパソコンを載せると、ちょうどノートパソコンのカメラが顔の正面に来ることに気づきました。これは使いやすい。

鏡台の上には黒く小さな丸かんの金具の持ち手がついていて、持ち運びするのに便利でした。それほど運んだりすることはなかったのですが、使い続けるうちに気がついたら取れていました。どこにいったのでしょうか。金具をつけていた小さな別の金具がついていてちょっと不安定ではありますが、配信そのものにおいて大きな支障はない。

人生、何がどう役立ってくれるかわかりません。

目的はともかく、この鏡台とはおそらくずーっと付き合うことになるでしょう。

| | コメント (0)

あんかけうどんをもう一度。

その日、私は関東高田組のライブに行く予定を立てていました。会場は渋谷パルコクラブクアトロ。

当時、私は渋谷に近い場所でひとり暮らししていましたから、夕食を軽く食べてから会場に行っても十分余裕です。
乾麺をゆでてうどんをつくり、つゆに水溶き片栗粉を混ぜてあんかけうどんを作ろう…としたところ、で突如身体に悪寒が走りました。そして動けなくなりました。

…これはまずい。

そう直感しました。
体温を測ったところ、唐突に38度近い熱。何だこれは?!
鼻のど他に異常はありませんが、とにかく熱で動けない。
うどんは捨てました。ライブの前売チケットは買っていましたが、それどころではありません。
薬を飲んで、寝ることにしました。

翌朝は出勤日。やはり動けない。熱は下がらない。電話をかけて会社は休みました。
食事が入らなくなりました。のどは通るのですが、しばらく経つと食べたものをもどしてしまう。

薬を飲むとどっと汗をかいて熱は下がるのですが、薬が切れるとまたじわじわと上がり、また動けなくなります。
薬で熱が下がっている時に、近所の店に行き、最低限の食料と薬を買って、また寝込む。
頼ることができる人もいなかったので、それで数日過ごしました。

それでも仕事はたまるので、途中熱っぽい身体で一日だけ会社に行き、数時間だけ最低限の仕事をこなしてまた帰宅しました。
のろのろと、会社の最寄りの池袋駅構内を歩いていたら、声をかけられました。

「あなた、今、幸せですか?」

…うるせー今それどころじゃないよ! というか人が弱っている時に声かけてくるんじゃねーよっ!

と言いたかったのですが、こちらは身体がしんどくて、断るのがやっとな状態。人の弱みに付け込む人って、ほんとうにそういう弱った人(つまりあの時の私のような人)を良く見つけるものですね。ある意味感心しましたが、とにかくそれどころではなくて。

熱はそれから数日続きました。何か食べるとすぐにもどします。遠方で医者をやっている女性の友人と連絡が取れて、ふとんの中から相談してみました。
「直接見ていないからわからないけど、もどしてしまうんだったら、胃腸関係じゃない?」
胃腸専門の病院に電話をかけ診てもらうことにしましたが、予約は少し先になりました。

熱は上がっては下がり、下がっては上がりで、食べ物が入らないことも含めて、その状態は一週間以上続いたでしょうか。

ようやく身体が楽になってから病院に行き、生まれて初めて胃カメラを飲みましたが、特に問題は無いということで原因不明ですべては終わりました。

久しぶりに会社に復帰して。

「あれ? (か)さん、痩せてない?」

体調が直った直後はそうでもなかったのですが、しばらくしたらどんどん体重が減ってゆきました。最終的に10kg減ったでしょうか。喜んでいいのか悪いのか、微妙でしたが、まあ、喜びました。(注:今は戻ってます)

結局、あの高熱は何だったのか、もうわかりません。食あたりにしては熱だけという症状が謎ですし、ウイルス性の何かだったのかなあ…と思うこともありますが、別に誰かに何かを移した・移されたわけでもなさそうです。

ひとつだけ言えるのは、あれ以来、乾麺をゆでてのあんかけうどんは作らず食べなくなった、ということです。もう作っても大丈夫かな。

| | コメント (0)

竹下通りのクレアーズ。

ちょっと骨太で身体が大きめ、茶色系の服が似合うイエローベース。私は自分のことをそう認識しています。
そんな自分が持つアクセサリーの数はそう多くないのですが、そのうちの一本が、この茶色のネックレスです。

_9uk2dan

つや消しされた大ぶりの茶色の玉はプラスチック、その間には金属の小さい玉がはさまれていて、黒い糸でつながっています。
購入したのは私が東京でひとり暮らししていた頃ですから、少なくとも10数年前、原宿の竹下通りのアクセサリー屋台で購入しました。その時既に竹下通りを歩くのは気恥ずかしさもあるお年頃でしたが、観劇か美術展か、そんな何か用事があったんだと思います。3種類千円くらいの激安価格でした。
それからいろいろあって東京から静岡に戻り、結婚して今住むところに移ってからも、サマーワンピースやセーターに合わせてつけ倒してきました。夏の汗や化粧品で汚れてベタベタになり、捨てようかなとも思いましたが、ダメだったらあきらめる覚悟で食器用洗剤につけ、たわしでごしごし洗ったところ、見事に復活しました。

そして現在に至る。

ふと思い立ち、チェーンのブランドプレートの部分の文字を解読してみようと思い、写真を撮って拡大してみました。結果がこちら。

見えますか~?

「doire's」? いや、これはおそらく「claire's」です。
懐かしい記憶が一気によみがってきました。

クレアーズ(wikipedia)-

クレアーズ(claire's)は、アメリカ合衆国イリノイ州ホフマンエステーツ(シカゴ郊外)に本社を置くアクセサリー販売店である。1961年、ローランド・シェーファーにより設立され、1970年代にはチェーン展開を始める。日本では1994年にイオンとの合弁会社クレアーズ日本を設立。同社は2010年にイオンが100%出資する子会社になった。イオンモールを中心に店舗を展開していたが、イオンのグループ企業における戦略的整理・統合に伴い、2020年10月末をもってイオンによる日本での事業を終了し、全ての店舗の営業も終了した。

 

私は、静岡のショッピングセンターにあったクレアーズのお店が大好きでした。手ごろな値段で、ティーンや子ども向けのアクセサリーやグッズがたくさん飾られていて、すべての品物が手が届く値段で、過剰なほどにすべての商品がキラキラ輝いていました。ららぽーと磐田や新静岡セノバなど、数年前に次々と店舗が閉店していった時は、何もできなくてほんとうに残念に思っていました。

私が東京から静岡に戻ってきたのが2001年、クレアーズが日本に進出したのが1994年ですから、1990年代に竹下通りに店があってもおかしくありません。いや、竹下通りにお店は間違いなくありました。

【女子の夢】『Claire’s(クレアーズ)』明日ついに完全閉店! 都内最後の店舗に「ありがとう」を告げてきた(ROCKETNEWS24)

2020年10月末、日本で最後に残っていたお店は竹下通り店でした。

今、私の手もとにあるネックレスは、クレアーズの商品というにはちょっと地味な色合いです。でも、少なくとも20年以上、乱暴に扱われてごしごし洗われても、女の子(誰が何と言おうと)のアクセサリーとしてその役割をきちんと果たしてくれています。

私はクレアーズのファンでした。今までも、そしてこれからも。
また日本に戻ってくることがあったら、きっとそのお店の中に入って、自分をかわいく飾ることの幸せに浸ろうと思います。

 

| | コメント (2)

より以前の記事一覧