「とおりいっぺん」。
マスコミやメディアとかといった情報を届ける媒体とは、読者という受け身でしか向かい合っていなかった自分が、「取材」というのに初めて出会ったのは、東京で半導体商社の事務をやっていた時のことでした。自分が取材対象になったのではありません。
その日は、技術部の課長が朝から妙に緊張していました。
「今日は、半導体の市場調査会社の担当の方が取材に見える。それで午前中はずっと会議室を使うので、電話などがきても折り返しにしてほしい」
ノートパソコンは課に一台だけという時代です。ワイシャツネクタイにグレーの作業用のジャンパーを羽織り、厚い資料を何冊も携えて、課長はやってきた担当者の方と会議室で聞き取りをされていたようです。ようです。というのは、私は会議室には入っていないからです。
当時20代の私の頭の中には「取材というのはきちんと準備をして、失礼のないように臨むものだ」という意識が植え込まれたようです。
そしてある時、女優さんのインタビューを読んでいました。
「役づくりのために、その仕事をしている人に取材していろいろお話を聞いたり、仕事をしている場所におじゃまさせていただいたりしました」…ん? 「取材」というのは、文章を書いたりするためだけのものではなく、自身の中に何かをたくわえるためにするものでもあるのだろうか。だとしても、取材されるために、何をどういうふうに話をもっていっているのだろうか。「こんにちわ~、役づくりのために取材させてください」といって「はいどうぞ」と承諾してもらえるものなのだろうか。女優さんが見知らぬ一般の方と「取材」という人間関係を築くその方法は、私にはものすごいブラックボックスに思えました。
時を経て今、何の訓練も勉強もしていないのに、なぜかインタビューされることもあるし、する側に回ることもあるようになりました。特に「する」時は、ものすごく腰が引けています。
弱小媒体をひとりで出している立ち位置でしかない自分が、そこに載せることを目的に自分が話を第三者に聞くことは許されることなのだろうか、私利私欲のために、自分ひとりが楽しむためだけに媒体に載せるということを利用していないだろうか。取材や掲載に至るまでの手続きや方法は正しいのだろうか。失礼なふるまいをしていないだろうか。文章の書き方は正しいのか。記事を出す前に当事者にチェックはいただいていますが、内容に本格的にダメ出しをしてくれる人はいないままここまで来てしまいました。
最近は、こう考えています。
「自分がインタビューする時は、とおりいっぺん(通り一遍)のことを聞けばよい」
相手が話したくないことは無理にたずねない。取材相手の言葉が「とおりいっぺん」になっても、その「とおりいっぺん」を聞いて残すことが、今の私にできることなのではないだろうか。今の「とおりいっぺん」は、時間が経てば「とおりいっぺん」ではなくなる。
私は、取材の中から聞き手の私という存在を消して、関心を持った人に届く役立つ情報になりたいです。私は情報になりたい。
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